感情と感覚

 

感情が死んでいくような感覚。

殺されているのか、自分で殺しているのか。

 

SNSと共に生きているせいか、良くも悪くも情報を瞬時に取捨選択できるようになった。必要なものにはfavを、そうでないものはスライドを与える日々。

ふと思う。その指先に感情はあるのだろうか。好きだからfavする。興味がないからスライドさせる。そこには確かに感情は存在しているはずだ。ただ、その行為に「意思」はない。言うならば、「なんとなく」という“感覚”で行っている行為なのではないか。

 

ともすると、「好き」という感情は、もはや“感情”ではなく“感覚”になっているのではないか。

最近、電車の中で某マッチングアプリを使っている人を見た。その人は、右手人差し指一つで次々出てくるマッチング相手を右左にスワイプしていた。その指先に、感情はあるのか?「なんとなくいい」という感覚で選んでいるのでは?(「恋はフィーリング」なんてよく言ったものだと思う。)

 そういう世界に生きているからか、感情が死んでいる感覚を覚える。いや、世界のせいにしている時点でもうすでに思考を放棄しているダメな奴だと認めるしかないのだけれど。

何かを見た時に「すごい」とおもう感情。その感情の奥には何がある?「すごい」に包括されてしまったその中の小さな感情の粒を、どうして私たちは探すことなく一言で言い包んでしまうのだろう。(考えることが面倒くさいから。感情に説明がつかないから。だからすべてを包括的に言い表せる言葉に逃げてしまうんだろう。)

 

感情は死んでいない。なのに、「死んだ」と感じてしまうのは、自分自身がその「感情」の表現から逃げているからなのでは?指先一つで情報・お金・恋人まで手に入るこの世界には、あまりにも感情の入る余地が減ってしまっているんじゃあないか。別にこの世界を否定するわけではないけど、ちょっと悲しく思えてしまう。

 

ちょっとずつでもいいから、「感覚」と「感情」の区別をつけていきたい。何かを思ったときに漠然と「好き」「好きじゃない」と分別するのではなくて、その先の「感情」を探っていきたい。それは、大げさなことかもしれないけれど。これから来る近未来に対して私たちが唯一対抗できる存在価値につながると思う。自分が生きていく上でも。